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VAN SHOP 多治見・人生を愉しむ。
戦後のライフ・スタイル革命史。

VANヂャケットと石津謙介。

「昭和とVANと私」。

橘 浩介
Tachibana Kousuke

 

 


INTER VARSITY

IVY MAKES THE LEGEND.

Satsuki Base 126

問合せメイルは上のバーナークリック こちらから。

TRAD.   LEADS THE WAY. 

THE EVERLASTING IVY 2017

INTER VARSITY

 

 

 INTER VARSITY

  

新店舗住所 

Satsuki IVY House 126

Varsity

〒509-0236 岐阜県 可児市 皐ケ丘(サツキガオカ) 5-126番地

有限会社 インターヴァーシティ Satsuki Base 126

126サツキベース (VAN多治見)  詳しくは気軽に問合せください。

 TEL 0574-49-6228

 


※石津先生の画像、並びに、お写真の使用を、VAN多治見 ホームページ上にて、
石津事務所より、承諾を受けております。







アイビールックと言えば・・石津謙介 Ken Ishizu

ファッションではない。TPOを含めた、ライフスタイルの提案なのだ!


VAN
石津伝説! いつまでも永遠に・・・・



『男にとってファッションは、単なる着るものや流行ではなく、生き方そのものである。』


ライフ・スタイルだということを教えてくれたのが石津謙介さんでした。その93年にわたる生涯は、


自ら提唱した「人生四毛作」。どおり、かっこよくも、楽しく、豊かで、3つの転機も含めて人間的なもの。


人生の生涯を、タイム・テーブルにたとえて、孔子の著した「論語」2500年も前に書かれたものですが、


その中で、先生が一番感銘を受けたのが、「五十にして天命を知る」。ということでしたが、感銘を受ける。


私自身、石津先生の言葉全てに感銘を受けたからこそ、また後世へ伝えていく。  志を受け継ぐという意味です。


天命とは、人間の生まれた、そもそも・・「徳」のことだといわれています。


先生はそれは第一次完了だと捉えたいと言っておりました。   志=信念=生き方そのものである。




織田信長は、本能寺で自刃する前に、「人間五十年、下天のうちを比べれば、夢幻のごとくなり・・」。


これは有名な言葉でありますが、2500年前から、昔の人は、人間は五十歳で完成するように作られていると


孔子の著でも書かれています。   70歳を越えたあたりで石津先生は、このことに気付いたそうです。


最近では、物の考え方や、行動様式含めて、限りなく、人生の区切りを考えず、歳だけ重ねて、


その時、その時の大切な物を忘れがちになっているのではないか!と思います。  常に前向きに生きてきて、


後を振り返ろうとしなかった。いや出来なかったのかもしれないですね。


先生曰く、人間の晩節は、ゆとりある生活で締めくくることが、人生四毛作論の要網であり、その計画設定は、


早くに気付く事が大切だと、著書では言ってました。 「お洒落な人より、洒落た人になれ!」


男たちの遺言を結んだ石津謙介さん。その言葉を最後に、2005年5月24日「四毛作」の収穫をすべてを


終えたのです。けれども、その種子は全国に蒔かれ、それぞれの土地に根を張り、たわわな稲穂になって


私も、そのひとつだと思っています。   おかえりなさい。石津謙介さん。





「おかえりなさい石津謙介さん」。

青山通りで先生にお会いできる3日間。
人生を愉しむことを教えてくれた石津謙介さんが、
私たちの視界から姿を消したのは、今年の5月24日のことでした。

そこで、石津謙介さんを心の師と仰ぐ人たちが集まって、
石津謙介さんの写真と出演映像によるイヴェントを東京と大阪で開催されました。
東京会場は、40年にわたり仕事の本拠を置き、こよなく愛した青山です。
平成17年10月20〜22日。






私、橘浩介もですね、初日に、当ホームページで御馴染みの友人ですが、
VANコレクターは中村誠氏と、同乗し、こちら岐阜からクルマで行ってきました。

石津さんの誕生日でもあった10月20日。
この日に行かねばならない気がしたのです。



私は、26年ぶりくらいに、青山3丁目〜赤坂あたりを歩きましたが、
随分と賑やかに、ファッションの街であり、そして凄い人でびっくりしました。

VAN TOWN AOYAMA だった頃、旧VAN社屋の様子は、26年経っても、
何も変わっていませんでした。  確かにVANの看板は、1978翌年には外されたのだけど、
ベルコモンズあたりの街角風景はそのままでした。



  

左が、1977年、青山にあった頃の、旧VANヂャケット。     右が、先日、2005.10.20撮影。


 


いかにも、書斎とポスターが重なって、本当にそこにいるようでした。  デスクの上には、先生の
直筆と見られるたくさんの筆記メモがありましたね。  また、お気に入りの帽子がたくさん展示してありました。 

デスクの上の メモの中に、「ゆとり」。という 言葉が、目に留まりました。
それは、気持ちのゆとり、心のゆとりでしょうか。 現代、古今では一番大切なメッセージのように思います。




石津謙介さんの書斎を再現してありました。


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「おかえりなさい石津謙介さん」。

KEN  ISHIZU  (1911−2005)
写真/関戸勇  デザイン/渡邊かをる


ワクワク・ドキドキの 楽しい人生を送ろう!
楽しい仕事をするのではなく、仕事を楽しくしてしまうに限る。
仲間が集い楽しいことをすれば、大きなエネルギーを生み出す。


先生はたくさんの言葉を残してくれました。






髪を染めても、ガムを噛んでも、日本人は日本人なのだ。
西洋人が羨むくらいに、日本文化に華を咲かせて、
日本人の誇りを取り戻そう。

物ではなく文化を輸出する、大人の国、日本の到来を願う。
石津謙介  Ken Ishizu

AOYAMA PRESS


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INTER VARSITY

TEL 0574-49-6228

詳しくは問い合わせください。

旧VAN多治見についての 問合せ 

住所、問合せ連絡先 

〒509-0236 岐阜県 可児市 皐ケ丘(サツキガオカ) 5-126番地

  

先生が特別好きだった、ノーマン・ロックウエル。 
 
「男は正午を過ぎたらビールだよ。」が口癖だった。

そいえば、ボクもそうだなぁ〜銘柄に拘らないのも同じである。
ボクも, 正午から、ビールを飲むことが多くなった。(笑)
そう! 楽しい仕事はをするのではない。 仕事を楽しくしてしまうに限る。

なんでも面白がる、積極的に人生を愉しんでみる。
そして、面白いと思ったら、とことんやる。 たとえ、人がなんと言おうと、
あなたはあなた自身でいるべきなのだ! 
先生の言葉はずっしりと心に残るんですよね。
AOYAMA PRESS




  

いつでも胸に遊び心。  つまり、ファッションとは「生き方そのもの」。

「衣食住、全てを含む世の中の時流」というのが石津先生の持論だった。
ライフ・スタイルそのものが、ファッションなのだ。


VAN TOWN TAJIMI
服を遊ぶ!クルマを遊ぶ!生活を愉しむ!
若者や、若々しい心を持った人たちへ

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「先生」と呼ばれたファッションリーダー。
この日本に、石津謙介が現れなかったら、VANによるファッション革命は起こらず、
若者たちの目覚めは遅れていたかもしれない。

そして、何よりも、石津謙介の生き方そのものが、ダンディズムの教科書だった。
「お洒落な人より、洒落た人になれ!」。
AOYAMA PRESS



(読売新聞)より抜粋 - 5月24日20時50分
● 昭和の灯が、またひとつ消えてしまった。

「アイビールック」石津謙介さん死去

 1960年代に一世を風靡(ふうび)した「VAN」ブランドの創始者で、
高度成長期の男性ファッションに大きな影響を与えた
服飾評論家の石津謙介氏が24日午前2時02分、
肺炎のため亡くなりました。    93歳だった。


 

 本人の希望により葬儀はせず、献体した。
後日、別れの会を開催の予定。連絡先は、
東京都港区南青山3の14の19、石津事務所。

 岡山市出身。明治大学商科専門部卒。
家業の紙問屋を継いだが廃業し中国に渡って洋品店で修業。
戦後、大阪の服飾メーカー勤務を経て、
大阪で紳士服メーカー「ヴァンヂャケット」を設立した。

 1955年に東京へ進出。ボタンダウンのシャツに細身のスラックスという
米国東部の名門大学群「アイビーリーグ」の学生ファッションをヒントに提案した






「アイビールック」が爆発的な人気を呼んだ。
このスタイルで東京・銀座のみゆき通り周辺にたむろする若者が
「みゆき族」と呼ばれ、社会現象にもなりましたね。

 しかし78年、販売網の急速な拡大が裏目に出て、
当時の既製服業界では史上最高といわれた約500億円の
負債を抱えて倒産したわけです。

 その後は、服飾評論家やファッションプロデューサーとして活躍。
日本メンズファッション協会最高顧問を務めたほか、
サラリーマンに脱スーツを勧める「カジュアルフライデー」を
提唱したことでも知られる。

 「ファッションとは衣食住、ライフスタイル全般のこと」が持論。
週末には台所に立って腕を振るう趣味人でもあったようです。

 仕事を始めたころから、「僕は流行は作らない、風俗を作りたい」
入院中には、この言葉を全うできたと話していたそうです。
ダンディズムの超達人 石津謙介
 「生きる」こと「遊ぶ」こと。

人生晩節を ゆとりある生活で締めくくることが
「人生四毛作論」の要綱であり、
その計画の設定はなるべく若いうちから始めたほうがいい。


人生を米の生産にたとえるならば、土地を肥え、気候がよければ、
米も四度を限度に 収穫することが出来る。
人生もまた、うまく過ごせば、四度の収穫期があるということ。

「人間五十年、下天のうちを比ぶるば、夢幻のごとくなり・・」。

生を四つに区切ったとして、たとえば 100歳まで生きられるとすると、
四半世紀ずつに区切るのである。

一毛作目は 誕生から25歳までとして、  
人間は人格の基礎を形成される時期である。
ニ毛作目は 50歳まで 社会に出て自分自身を磨き、
かつ、自分の生活を形成する時期。
三毛作目は75歳までで、一毛作目と、ニ毛作目の収穫をもとに、
新しい人生を大いに愉しむ時期。
四毛作目は、75際以降で、これはもうけもの。 
 つまり、人生のおつりというか、おまけというか、
まったく自由に、思うままの生活を愉しむことの出来る時期。


人生四毛作というのは、人間は基本的に50歳までに、
一応完成されなければならない。
という、石津謙介氏の 提案でもあるのです。

孔子の著した、言葉の中で、「五十にして、天命をを知る。」
石津さんが、もっとも肝銘した言葉だそうです。

人生晩節を ゆとりある生活で締めくくることが
「人生四毛作論」の要綱であり、
その計画の設定はなるべく若いうちから始めたほうがいい。

より、人間的な生活をエンジョイするために、
自分にありのままの姿こそ、人間的である。


「人間的な」  石津謙介


 

追想録

「茶色のツイードを着るのはまだ早い!」

当時、まだ大学生だった長男の祥介さんは
父の石津謙介さんから叱られたそうです。

やや背伸びして、大人のジャケットを悦に入って羽織っていた頃です。
同じ学生時代。「もう帰っていたのか、もっと遊んで来い!」。
祥介さんの後に帰宅した父 石津謙介さんは声を荒げたそうです。
「なにしろ芸者の置き屋から大学に通った人ですから」。
祥介さんは苦笑しながら振り返って話されました。

かつてのVANヂャケットの副社長、
今現在、石津事務所 代表の祥介さん。

二つの挿話はVANブランドの精神を語っているようです。
TPOをきちんとわきまえ、好きな事を愉しむ。

当時、VANの街と言われた、東京は北青山 
本社では社員が好き勝手につくるアメリカン・フットボール
アイス・ホッケー、キック・ボクシングなどの
サークルを会社が補助金で応援したんです。

三つボタンジャケットにボタン・ダウン・シャツの
「アイビールック」で始まったVANが、
若者のライフ・スタイル提案者であり続けたのは、
こうした「自由」な社風があったからだそうです。





それは創業者の大学生活の再現でもありました。  
オートバイ部に始まり、自動車部、
そして、航空部まで立ち上げて立川基地で
飛行機の操縦訓練まで受けました。

「詰め襟で金釦の制服を着たい」。
着物姿を嫌った謙介少年、
小学校2年生の頃の転校理由だそうです。
後年、「これでファッションビジネスへの
針路が決まった」と語るほど、
身辺への拘りは並外れていたわけです。

生家は御存知、岡山市の富裕な紙問屋。
跡を継いだものの戦時統制で行き詰まり、
友人の誘いから中国・天津で服飾会社を経営。

そこへ進駐してきた米軍将校を通じて知ったのが「アイビー」。
大阪はレナウンを経て独立後に上京。
高度成長と米国の文化の憧れという時代の勢いを得て、
「男のおしゃれ」に火をつけたんです。

事業は急拡大していくが、在庫の数字などは無頓着のまま、
服から生活全般に感心を広げる。
家具のアルフレックス、雑貨のオレンジ・ハウス、
観葉植物のグリーン・ハウスなどの専門店を創出。





「あれは衝撃的だった。その後のライフ・スタイルを先導した」と
話すのは石津さんより、30歳近く年下のデザイナー
菊池武夫さん。
 社員が2千人、売上高は四百五十億円に達し、上場の話しも出た。

商社丸紅との連携が進んだ頃には、
「あまりの規模に戸惑っていたのでは・・」と
身近にいた元社員。

英国のミニ・クーパーSや、ホンダのシビックなどから
ベンツに乗り換えながらも、
「ハンドルを握るニドアに固執したのは、
普通の会社への抵抗だったのかも」
と見られていたそうです。

社長業が似つかわしくなく、ダンディな生活者であり、
服飾評論家であり続けたわけで、
そんな周囲の思いが、倒産後も舞台を去らせなかった。

遺骸を献体し、葬儀をしないのは本人の意志だったそうですが、
「問を置き、からっとした気分でお別れ会を八月に開きたい」とのこと。
石津祥介さん(談)

  浅川澄一さん編集より抜粋



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